7月13日、この日は、訓練所に入所して一週間もたっていない日曜日でした。
一番休みたかったであろう日曜日に一緒にボランティアに参加した方々をご紹介します。
【参加者数】
東京や、その他の地域から日帰りでいらっしゃったリハネットのボランティアの方
・・・3名
班員のリハビリテーションをお仕事にしている人たち・・・5名
- 現職参加の理学療法士にも関わらず、従事する職種はコミュニティー開発。わたしたちの生活班の班長。
- 京都で長年、理学療法士として働いていた生粋の江戸っ子。
- スタバが大好きな博多生まれの理学療法士。
- 大学病院に勤めており、理学療法士よりも理学療法にも詳しい作業療法士。
- 一番経験が浅いわたし。
【対象者】岳下仮設住宅の方10名程度
【活動内容】
リハネットの活動は2つ。
- マッサージ
- 折り紙を折ること
でした。
わたしが具体的にやったことは3つ
① 腰痛症と右足底のしびれ感を訴えていらっしゃったお父さんのマッサージ
去年の冬から、テトラポットの上での復興活動(お仕事)をされていて、右膝を痛めたとのお話を伺いました。
全身のマッサージと、右ひざのストレッチ、筋トレを行い、自主トレーニングとして簡単なストレッチ(ハムストリングス、下腿三頭筋のストレッチ)と軽いランジのような体操をお伝えしました。
② 折り紙を折る
花びらのようなものを折る→開く→5つくっつけくす玉のひとかけをつくる→3辺ずつくっつけて、丸いくす玉にする。
この作業を、参加者の方々に教えてもらいながら一緒に折ったりくっつけたりしました。
③ おかあさんのお話を伺う
「おかあさん」と書かせていただきますが
参加者の中のおひとりで、毎回この活動を楽しみに参加して下さっている方でした。
「手先が不器用だから」と、細かい作業には参加されませんが、明るくお話しして盛り上げたり、おやつを持ってきてくださったり、積極的に参加してくださっていました。
わたしもそれまでも、何回かお会いしていました。
しかし、対象者の方と積極的にお話したのはこの時が初めてでした。
この方の隣で作業していると、まず、「あなたのおばあさんはなにしているの?」
と聞かれました。
わたしの祖父母は、秋田県の米どころで、コメ農家をしていました。
現在は高齢のため、庭の畑で野菜を育てて地域の販売所で売ったり、
鶏を育てて卵を売ったり、
販売所で、大福やモチなどを作って売ったりしています。
そうお伝えした後、おかあさんは言いました。
「そうだね、おじいさんやおばあさんにとって、それは『日常』だよね。
私たちは、もともと福島県の海の近くの「浪江町」で生まれ育って、結婚して農業をやって生活していたの。
あなたのおじいさんおばあさんと同じように。
でも、福島原発の影響で突然畑や牛の世話ができなくなり、大きな家から引っ越さなければならなくなってしまった。
今まで毎日行っていた仕事ができないこと。
大切に育てている畑や牛を手放さなくてはならなくなったこと。
狭い家に住まなくてならず、やることもない。
環境の変化にとても落ち込んでいた。
けれども、落ち込んでいることすらわからず、何の言葉も出てこなかったの。
3年過ぎて、ようやく気持ちは落ち着いてきて、ここの集団生活にも馴染んできた。
今は畑を借りてエゴマを育てたり、ここに来たり、仕事があるの。
そして、徐々に生活のことについて話せるようになってきたのよ。
仮設住宅からいつ引っ越しできるのかはわからないの。
まだ5年はこの仮設住宅に住まなくてはいけないと思う。」
最後におかあさんはこう言ってくださいました。
「2年間の派遣期間が終わってもまた来てね。」
何も知らずに参加させてもらっていたわたしの心に
ハッキリと参加する意味が浮かんできました。
震災の被害を受けた方々が、いまも共に生活している事実。
復興はまだまだ途中だという事実。
共に、同じ空間を生きるということ自体に意味があるということ。
わたしにできることってなんだろう?
それは、今できる精一杯で、ここに住む方々を労うこと。
そして、伝えていくこと。
二年間のモンゴル生活が終わったら、また参加させてもらおうと思いました。
この日は、仕事を辞めて2週間経っていました。
プチ理学療法士体験ができたこと、いろいろなお話を聞けたこと
他愛もなく、障害のある子も、高齢な方もわいわい同じ時間を過ごせたこと、
すべてにわたしが一番、癒されて帰りました。
班員のメンバーもそれぞれに考えながら活動していて、すごく頼もしく感じました。